【鉄道】特急 白鳥について

 特急白鳥は、1961年10月1日に登場した大阪と青森を結ぶ特急列車である。私自身も何度も利用した思い入れの有る列車だ。2001年3月2日に運転を終了するまで、約40年大阪と青森(それ以上に北海道)を結び続けていた。

 

 この40年の間には幾つかの変化点が有り、それに伴い大きく6つの期間に分ける事が出来る。

 それらは

 期間① 気動車 - 旧北陸本線(北陸トンネル開業まで)     1961.10. 1 ~ 1962. 6. 9

 期間② 気動車 - 北陸トンネル開業後                             1962. 6.10 ~ 1965. 9.30

 期間③ 気動車 - 上野行き編成分離         1965.10. 1 ~ 1972.10. 1

 期間③ 電車化 - 米原経由                                               1972.10. 2 ~ 1975. 3. 9

 期間④ 電車 - 湖西線経由                                             1975. 3.10 ~ 1988. 3.12

 期間⑤ 電車 - 青函トンネル開通後                               1988. 3.13 ~ 2001. 3. 2

となる。

 

 私が白鳥を利用していたのは期間④⑤で、気動車の時代は知らない。それでももしタイムマシンが有れば、1年弱の短い間ではあるが、期間①の時に戻って乗ってみたいと思う。あの、難所続きだが日本海の眺めが素晴らしい北陸トンネル開通前の北陸本線旧線区間を味わってみたい。上りの夏場であれば日没の頃に通過したはずだ。

  デビュー当時下り白鳥は15時間45分掛けて青森へ走った。まだ北陸本線もほとんど単線だった頃である。表定速度は66.7km/hで、速度だけ見るとギリギリ特急かなという感じである。それでも速度は特急ギリギリとしても停車駅は超特急としても良い位で、例えば新津を出ると次の停車は鶴岡で2時間2分無停車だった。また、秋田の次は大館で、東能代鷹ノ巣も無視されていた。

 これが電車化・複線化等により徐々に早くなり、ピークだった1997年の上りでは83.9km/hを記録し、所要時間も12時間24分にまで短縮する。その一方で停車駅はどんどん増え、少しずつ貫禄は失われていった。

   

 私が初めて「白鳥」に乗ったのは北海道からの帰り、1983年 3月 5日だった。当時「きたぐに」は既に新潟止りとなっており、現実的な選択肢として大阪と北海道を結ぶ最も安価な手段だった。

 その後数年、年に何度か利用した。

 長距離を走るにもかかわらず、ほとんどの場合ダイヤ通りであったが、冬場には何度か遅れた事が有った。正確な年は忘れたが、年末に夜行連絡船で青森に着いた時、いつもであれば階段を降りると右手に見えるはずの「白鳥」がいない。すると、暫くして車体全体にひどく雪がこびり付いた、下り白鳥があえぐ様にホームへ入ってきた。0時前に着いているはずなので、約5時間の遅れだ。折り返し運転になるので、社内清掃がされ、出発した段階で既に1時間程度遅れていたと思う。

  その日は大雪で、少しずつ遅れは拡大し新潟を出る頃には3時間以上遅れていた。それでも何とか長岡に着くと、いつ出発できるか分からないので京都・大阪への乗客は新幹線を乗継ぐ様に案内された(当時上越新幹線は大宮始発だった)。

 私が上越新幹線に乗るのはこの時が初めてだったが、長岡に入ってくる段階で既に自由席は満席で2時間立ちっぱなしという最悪のデビューになった。それでも19時頃新大阪には到着し、通常ダイヤの白鳥と30分程度した違わず、複雑な気持ちになった事を覚えている。あの時の白鳥は一体何時頃に大阪に着いたのだろうか。

 

 大阪-青森間は約13時間掛ったが、当時これ位の乗車は平気だった。特に退屈した記憶も無い。現在日本と欧米を結ぶ飛行機も大体似たような時間が掛かるが、こちらの方がはるかに退屈だ。

 

 2019年現在、大阪を朝に出て、鉄道を乗継いで日本海側を走って当日中に青森に着く事は物理的には可能である。ただ、JR在来線・新幹線・転換路線とブツ切れになった鉄道を ただ繋ぎ合わせているだけで、そこに旅情は無く挑戦しようという気にはなれない。